大震災の後で人生について語るということ

大震災の後で人生について語るということ

大震災の後で人生について語るということ

結局どう生きて行くのか?福島県浪江町で生まれ、両親や親戚が震災・原発で東京近辺に皆避難することになってから数ヶ月が経ちました。震災が起きてニュースやネットで日本の状況を見ていて自分が思ったことは、今している仕事や生活をなるべく今まで通りしていこうと思いました。最初は、自分の田舎がなくなるかもしれないことについて何かできることはあるのか?などを考えたりしていましたが、むしろ震災後の数週間は、本やネットで色々なことを読んだりしても、何を頭に入ってこないような日々が続きました。

国や東電などがいざとなれば、役に立たないということはバブル崩壊後の日本、債務超過している日本の財政状況、失われた20年といわれるように、一向に進まない経済政策などをコンテンツとして議論を見ている分には面白いですが、個人の生活を守るという自分の立場で考えると、何が起きても大丈夫なように備えをすることは以前にも増して重要だと思いました。

本書は、橘氏の本を今まで読んでいた人からするとそれほど真新しい主張はないかもしれません。しかし、震災後に改めて考えなおす意味はあると思います。

こちらに避難してきた両親とたまに話す機会があります。震災前から私は両親などには、なぜ家を買わないのか?と何度も言われてました。持家を持ち住宅ローンという負債を背負うリスクと、これからずっと同じ仕事をし続けられる保証などはないので、ローンなどを組んでまで買った瞬間に価値が下がるものについてはお金を使わないということを主張し続けていました。昔から意見が合わなかったのですが、皮肉にも原発事故で避難した後は、自分のいうことを色々と聞いておけば良かったと思ったそうです。

最近自分が勤めている会社で、新卒向けの採用説明会をしたときに、学生と話をするなかで色々と仕事をするようになるときの心構えなどについて質問されましたが、自分が最近よく答えるのは、大人や世間の常識みたいなものを鵜呑みにしないで、自分で考えるようにした方がいいと言っています。それは、自分が自分で考えて行動することで、所属している組織や国家のリスクから切り離せる唯一のことだと思うからです。

人生設計のポートフォリオがリスク極大化すると何が危険なのかは、本書の中で、今回想像もしないような災害や経済的事件が起きたときに、もっとも弱い人たちに被害が集中することでより顕在化したと思います。その人たちの人的資本と金融資本のポートフォリオでみれば、ほとんどの日本人がリスクを極大化した人生設計をしているので、今回のような想定外の衝撃に耐えることができない。ほとんどの人が経済的な選択肢など持っていません。避難所ですごす高齢者に自助努力や自己責任を説いたところでなんの意味もありません。必要なのは社会全体のリスク耐性をあげ、それによって、リスク許容度の低い個人を支えていくこと。そのために何ができるのか?ということが書かれています。

読んだ後でも、震災前と後で、自分の考え方が180度転換するということはないのですが、日本が対策しなければいけない事は基本的には変わらないとずっと思っています。

政府のどうでもいいことに資金を垂れ流し、債務を積み重ね一番大事なときに財政に余裕がないという状況は、国の話なのでしょうが、他人事に思えない気がします。これまでの社会制度、既得権益を守りつつ、被災者の生活を支えることは可能ではないと思います。

国家レベルで考えると、自分の仕事でもないよなあなどと考えしまいますが、家族を持つ生活者としてはこれまでの、リスク許容度の低い不動産・会社を主要な資産とした人生設計ポートフォリオを持つのではなく、例えば、不動産ではなく、金融資産として世界株投資、ETF、外貨、会社ではなく知識・技能・経験などを持つようなことができるような世界が、昔に比べて一部の人間だけかもしれないのですが、確実に広がっているということです。

結局どう生きるか?というのは自分で考えて、自分でリスクを分散するという正解のない答えに対して、取り組み続けないといけないのだなと思います。